行列ができる
介護食③
世にも美しい分子調理の介護食
「絶対味覚感」から生まれたレシピ
「多田さんがいなければ、今回のプロジェクトは最初の一歩も踏み出せなかった」。これは、電通アイソバー・田場晋一朗氏の言葉だ。
実は田場氏は、今回開発された「にぎらな寿司」を試食する前に、すでに他で実用化されていた介護食の寿司を試食していた。「これが正直、まったくおいしくなかったのです。これまでの介護食が、食べやすさを追求する代償として、おいしさを犠牲にしてきたことを実感できました」(田場氏)。
多田氏は分子調理の専門家ではない。しかし、自身が培ってきたさまざまなフレンチの手法、調理機材に関する知識は、すぐにでも分子調理に応用できるものだった。
レシピ開発の期間は約1週間。そのほとんどを試作ではなく、調理法に思いを巡らす時間に費やしたと言う。お粥状の寿司飯を撹拌する際、糊化を防ぐために酵素タブレットを加えるといった分子調理メソッドも含めてだ。
「優れた料理人はみなさんそうですが、目指す食感や味のイメージのアイデアが浮かんだら、あとは作り上げるだけ。どのくらいの食材が必要か、調味料をどのくらい加えればよいか、その配分は簡単に引き出せるのです」(多田氏)
多田氏は、「調理人の絶対味覚感のようなものです」と、作曲家の絶対音感になぞらえて、そのさじ加減を表現した。
ひとさじの桃
絶対味覚感をもつ多田氏は、なぜ医療・介護業界にかかわるようになったのか。そのきっかけは「桃のゼリー」だったと言う。
「金谷栄養研究所の金谷節子先生から連絡があり、『今すぐホスピスに来てほしい』と、ある施設に呼ばれたことがありました。その日がはじまりですね」(多田氏)
その部屋には一人の末期癌の初老の男性が横たわっていた。余命は2週間ほどと医師から告げられていたという。そして、その男性はこう願っていた。「どうしても桃が食べたい」と。
だが、担当医師は流動食または経管栄養しか許可していなかった。
「金谷先生は、その方が食べたいものを食べさせてあげたい一心で、猛烈な勢いで担当医師を説得していました。それから私に、『どうか、彼が食べられるような桃を作ってあげてほしい』と依頼されたんです」(多田氏)
多田氏は、その男性のために、食べやすく工夫した桃のゼリーを作った。とてもうれしそうに食べる男性の表情を今でもよく覚えているという。
「まもなくしてその方は亡くなられましたが、後日男性の奥様から感謝の手紙をいただきました。それからです、介護食で僕が貢献できることがあると思ったのは」(多田氏)
多田氏によれば、フランス料理は介護食と親和性が高いという。かつてフランスの貴族の間では咀嚼することを不作法であると考えていたため、口元を扇子で隠しながら食べる習慣もあった。その時代の宮廷では、咀嚼せずとも味わって飲み込める料理がもてはやされたという。
「高い再現性」へのこだわり
それでも多田氏は、レシピ開発依頼の内容が「寿司のおいしさをそのままに味わえる介護食」と聞いたときは、「ハードルが高い」と感じたという。
その理由はシンプルで、免疫力の低下した人が食する介護食・病院食では通常、生ものを避けるからだ。生魚を使う介護食を作る以上、衛生面に細心の注意を払うのは当然のことだが、多田氏の役割は、単にレシピ開発と調理指導だけではない。加えて、医療・介護施設の調理担当スタッフの誰が調理しても、同じクオリティで再現できるよう、マニュアル化するという重要な任務もあった。
どんなに素晴らしい料理でも、介護食として提供する以上、多田氏しか作れないのでは意味がない。調理中の衛生管理も含め、間違いが起こらないよう体制を整える必要がある。「大事なのは、問題が起きたときに誰によるどの工程に原因があったのか明確にわかるようにすること。責任感を保ち、言い訳する人を出さないためにも有効です」と多田氏は言う。
また、体制を整えるためには、現場で働く調理スタッフから問題点を拾い上げなければならない。問題に対しては改善案を提示し、調理機材の使い方や新しい機材を導入する際の注意点に至るまで指導する。
「限られた原価で効率的にレシピを再現するにはコツがあります。複数の施設がある場合は、違う担当者が思い思いの調理機材を購入するのではなく、全施設で共通の機材を導入することです。同じ機材で統一すれば、使用する調理モード、温度、加熱時間を数値化できるので、非常に再現性は高くなります」(多田氏)
すべての高齢者に口福をもたらすために
施設のスタッフによる「にぎらな寿司」調理中、多田氏は作業効率を高める機材の使い方や、共同作業における無駄のない動き方まで指導した。
「病院や介護施設がレストランと異なるのは、365日食事を提供し続ける必要があることです。そのため、毎日100%力を出し切っていると息切れしてしまいます。ですから、70%くらいの労力でも十分なパフォーマンスを出せるよう機械化と数値化、そして合理化を進めたほうがよいのです」(多田氏)
コンサルタントとして、経営の立て直しに携わることも多かった多田氏。さわらびグループで働く調理スタッフを見て、「若い人が多く、明るい」という印象を抱いたという。
「調理師学校を卒業後、レストランなどで働いてみて『自分に合わない』などの理由から、病院や介護施設に移る人もいます。こうした人が集まる施設には疲れた雰囲気が漂い、コンサルティングも行いにくいのです。しかしここは違いました」(多田氏)
かつて多田氏が作った桃のゼリーが初老の男性の渇望を満たしたように、「本当においしい介護食」が高齢者に口福をもたらす日は近い。それは、最先端の分子調理メソッド、完食率をAIの画像認識によりデータ化するシステム、そして現場で働くスタッフのチームワークによって実現する。