CROSS TALK
SAKON Dialogue : 016

「おせっかい」を提供する
コミュニティナース #1

矢田明子(Community Nurse Company株式会社・代表/看護師・保健師)
矢田明子
AKIKO YATA
Community Nurse Company代表/看護師・保健師
SAKON Dialogue : 016
「おせっかい」を提供する
コミュニティナース #1
矢田明子さんは、病院の中で患者を待つのではなく、町の中でおせっかいをやく医療の専門家「コミュニティナース」を名乗り、11年前に地元・島根県出雲市で実践を始めた。それは誰に頼まれたわけでもなく、収入が保証されているわけでもない、全く新しい活動だった。当時まだ27歳だった矢田さんを突き動かしたのは、病気の宣告からたった3ヶ月後に亡くなった矢田明子さんの父親だ。「お父さんは、どうして病気で死ぬ前に町中で医療の専門家に会うことができなかったんだろう。もし誰かが、早く病院に行くように促してくれていたら……」。「もうこんなことがあってはならない」と矢田さんが思うに至ったストーリーを山本左近が聞いた。2回に分けてお送りする。
photos : Nobuaki Ishimaru(d'Arc)
text : Keiko Sawada

地域の中にとけ込むコミュニティナースたち

矢田明子(以下、矢田):左近さんはもともとF1のレーサーでしたよね? その頃の印象が強いので、今は医療や福祉のお仕事をしているとは知りませんでした。

山本左近(以下、左近):医師である僕の父は、地元の愛知県豊橋市で病院や高齢者介護施設や障害者支援施設などを運営していて。目の前の困っている人を助けたい一心で試行錯誤するうち、父が理想とする医療と福祉が連携する「福祉村」というコミュニティをつくったんです。今は、僕が父のあとを引き継いでいます。
 
矢田:実は豊橋にもいるんですよ、コミュニティナース。サーファー兼コミュニティナースなので日焼けしています。素敵な子なので、ぜひ左近さんに紹介したいですね。

左近:ええっ、豊橋にもコミュニティナースがいるんですか。

矢田:左近さんのように既存の医療・福祉の現場で活躍されている方とコミュニティナースとの接点ができてくると、またおもしろい取り組みができそうですね。

左近:その、コミュニティナースというのが非常に興味深くて。近々、本も出版されるそうですね。僕と同じように興味をもっている方が多いと思うので、改めてコミュニティナースとはどういうものか、活動内容をご説明いただけますか。

『コミュニティナース ―まちを元気にする“おせっかい”焼きの看護師』
(矢田明子・著/木楽舎)2019年2月9日発売


矢田:はい。コミュニティナースは私が11年前から始めた「在り方」の提案で、「暮らしの動線に乗っかって、必要なときに看護の専門性を発揮させる医療人材」と、今は表現しています。 たくさんの人の共感を呼んで、全国的に広まりつつあります。

健康づくりの取り組みはさまざまなかたちで行われていますが、そういう場に自ら出ていく人というのは基本的に健康への関心が高い人たちです。そのほかは仕事や子育てなどで手いっぱいで、自分の健康については後回しにしてしまう人が大半。そういう人だって、本当は自分の健康について疑問や不安があるのですが、病気やケガをしたときに周りに誰も声をかけてくれる人がいないと、なかなか病院に足が向きません。病院に行ったときには重症化していたり、ひどいときには手遅れということにもなりかねません。

そうなる前に、その人たちの暮らしの動線にケアする人が自ら入り込んでいって、関係をつくり、信頼を得て、健康について気兼ねなく話ができる関係性をつくりたいと思い、コミュニティナースという「在り方」が広まるよう活動しています。

左近:「暮らしの動線に乗っかる」というのは、具体的にどう関わるのでしょうか?

矢田:自治体や医療機関が提供している健康づくりの機会の場に出向かない人たちも、町のいろいろな場に顔を出すことはありますよね。たとえば、地元の産直市とか公民館とか喫茶店とか……。
そういう本人の行動パターンを変えさせるのではなく、医療の専門家が町の中にとけ込んでいて、そのルートのどこかで出会えれば、「へえ、看護師さんなの? 最近ちょっと血圧が気になるんだけどね……」といった風に健康状態に関する話が普通に出てきますし、看護師が話を聞けば、病院に行くべきかどうかといった専門的な判断ができますよね。まだ健康な人には、予防を働きかけることができます。

左近:外から相手に行動変容を起こさせようとするのではなく、その人の自主性を重んじながら変化が起こるような働きかけをするということですね。そのために、サービスを提供するとか助言を与えるといった、タテの関係ではなくて、まずは対等な関係を築いて信用してもらう。相手との関係をいちばん大事にされているんだなということが、お話から伝わってきます。
根っこの部分にそれがあるので、やり方はなんでもアリっていうか、自由度の高い活動を展開していけるのでしょうね。

矢田:そうなんです。コミュニティナースというのは、名称独占資格などといった法律で規制されている資格とは違いますし、決まった業務があるわけではありません。今のところ、コミュニティナースという専門職の在り方に共感してくれているナースたちが試行錯誤して活動している段階なので活動にも幅があります。だからこそ、それぞれの独創性が発揮され、おもしろい取り組みができている時期ともいえます。

病院や企業、民間団体ともコラボレーションしていて、たとえばJR東日本さんとは、「山手線をコミュニティナース化する」という企画を進めているところです。
コミュニティナースのコンセプトが駅に広がると何が起きるのか、どんな実験から始めてみようかと話し合っています。駅がコミュニティナース化して、みんなでおせっかいをやく日がくるかもしれません(笑)。

左近:おもしろいですね!

1人の実践からコミュニティナース育成へ

左近:コミュニティナースは、もともと矢田さんが一人で活動を始められたということですが、最初はどういうかたちだったんですか?

矢田:私の活動の原体験は、うちのお父さんが亡くなったことなんです。うちの実家は和菓子屋で、私が27歳のとき、55歳だった父は生まれて初めて大きな病気にかかり、発見から3ヶ月ほどで亡くなりました。「死にたくない」って言いながら……。
父は病気になって初めて、病院の中で医療の専門家に会ったんです。どうして父は55年間で1回も町の中でそういう人に出会わなかったんだろう、どうして病気に気づくきっかけを与えてくれるような”おせっかいな人”が町の中にいなかったんだろう……? そんな風に思ったのがきっかけでした。だったら、これから自分が町に出て、それをやっていこうと。

左近:お父様のような境遇に置かれてしまう人を減らしたいと思ったんですね。

矢田:そうなんです。なので、まずはケアの専門知識を学ぶために島根県立大学に入学しました。 同級生は高校卒業したてのピュアな10代の子ばかりの中、私は20代後半。でも、コミュニティナースの構想を話したらみんな共感してくれて、入学した翌月にはもうみんなで一緒に町に出ていました(笑)。
初めは喫茶店で、お店に来るお客さんたちと関係を築いて……。ただ、さすがにそのとき学校からストップがかかりましたけどね。

左近:入学した翌月っていったら…‥、基礎科目の最初の単元くらいの頃ですよね。まだ看護について何も学んでいない段階なのでは?(笑)

矢田:そうなんですよ(笑)。まだ解剖生理学で DNAについて学んでいるところなのに、気持ちだけ先走ってみんなで町に出ちゃった(笑)。

左近:行動力がすごいですね。コミュニティナースのビジョンをもつ前は、矢田さんは何をされていたんですか?

矢田:最初は社会福祉協議会の職員をしていました。着任したのは1999年で、翌年から介護保険制度が始まるという大事なときでした。昔ながらのいわゆる”おせっかい型”の福祉から、介護保険という費用対効果がシビアにチェックされる制度に移行する様子を目の当たりにした社会人1年目でした。

次に合同庁舎の税務課で税金を担当したのですが、同じく公的なお金を扱うなかでも、介護保険というラベルがついていない税金を使って結果的に福祉に貢献することもできるという感覚をつかむことができました。
その後、民間企業で企画と運営の仕事に携わったのですが、民間企業では徹底的にお客様のことを考えるという土壌がありますよね。そこで、それまでの2つの職歴のなかではいつも”市民のため”とは言いながらも、行政の望む文脈で動かざるを得ない部分があったんだなということに気づかされました。父が亡くなったのは、その頃です。

左近:それから大学に入学し、すぐに町に出てコミュニティナースとして実践を始めたんですね。

矢田:はい。その前に「ヤクルトレディ」という経歴もあるのですが(笑)。担当地区にある会社をまわって、みなさんとおしゃべりして……新人賞をいただきました(笑)。ヤクルトレディはコミュニケーション力がつきますよ。

島根県立大学入学後は実践を始めたばかりでしたし、保健師の資格も持っていなかったので、「コミュニティナース見習い中」と名乗って活動してましたね。島根大学医学部看護学科に編入してからは、保健師の資格取得を目指しつつ、看護師の資格はすでに取得していたので市内の病院の混合病棟などでパートをしていました。

左近:卒業後は、病院勤務をされていたんですか?

矢田: 卒業後は、雲南市の市立病院でフルタイムではなく毎日半日ずつぐらいのペースでしたが、非正規職員として籍を置かせてくれました。コミュニティナースがもつ将来のポテンシャルを認めてくださったんだと思います。高齢化が進むなか、地域の基幹病院として何ができるのか、病院としても多様なチャレンジが必要だという意識があってのことだったようです。

左近:さらにNPOの運営も。

矢田:当時は3人の子どもの子育てもしていました。今は4人ですけど(笑)。
ただ、コミュニティナースの実践を続けていくなかで、「あ、これは自分1人でやっていくには限界があるな」と感じるようになって。
1人のコミュニティナースで対応できる人数が100人だとしたら、みんながコミュニティナース化していけば、1000人、2000人という町の人がコミュニティナースと出会えることになるんじゃないかと。自分が身につけたものをシェアしていけば、“1億総コミュニティナース化”して、健康で元気な人をもっともっと増やしていくことができるかもしれない。そんな思いが芽生えてきたころ、ありがたいことに雲南市がやっている人材育成事業「幸雲南塾」と巡りあえたんですよ。

そこからコミュニティナースをNPOの活動の一環として実施するという私の新しいチャレンジが始まり、市民団体だった「おっちラボ」をNPO法人化しました。そのなかで、後に続くコミュニティナースが次々に生まれてきて、これまで1人でやってきたことを他の人につないでいくためには何をしたらよいのか、少しずつ見えてきました。
#2に続く)
矢田明子
AKIKO YATA
Community Nurse Company代表/看護師・保健師
1980年生まれ。島根県出雲市出身。26歳のときに父の死を経験し、看護師を目指して27歳で大学へ入学。大学入学後、コミュニティナースとして自ら活動を開始。看護師免許を取得後、島根大学医学部看護学科に編入し保健師取得。2014年、人材育成を支援する『NPO法人おっちラボ』を立ち上げ、代表理事に就任。2016年5月より「コミュニティナースプロジェクト」でその育成やコミュニティナース経験のシェアをスタート。2017年4月に『Community Nurse Company株式会社』を設立。同年12月、『日経WOMAN』より「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2018」を受賞。『Community Nurse Company株式会社』代表取締役、『株式会社コミュニティケア』取締役、『NPO法人おっちラボ』副代表理事、雲南市立病院企画係保健師。2019年2月、初の著書となる『コミュニティナース ―まちを元気にする“おせっかい”焼きの看護師』が木楽舎より刊行 (amazon) 。
山本左近
SAKON YAMAMOTO
さわらびグループ CEO/DEO
レーシングドライバー/元F1ドライバー
1982年、愛知県豊橋市生まれ。幼少期に見たF1日本GPでのセナの走りに心を奪われ、将来F1パイロットになると誓う。両親に土下座して説得し1994年よりカートからレーシングキャリアをスタートさせる。2002年より単身渡欧。ドイツ、イギリス、スペインに拠点を構え、約10年間、世界中を転戦。2006年、当時日本人最年少F1デビュー。2012年に日本に拠点を移し、医療法人/社会福祉法人の統括本部長として医療と福祉の向上に邁進する。2017年には未来ヴィジョン「NEXT55 Vision 超幸齢社会をデザインする。」を掲げた。また、学校法人さわらび学園 中部福祉保育医療専門学校において、次世代のグローバル福祉リーダーの育成に精力的に取り組んでいる。日本語、英語、スペイン語を話すマルチリンガル。

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