CROSS TALK
SAKON Dialogue : 030

笹川会長と
“ソーシャル・チェンジ”
を語る #1

笹川陽平(公益財団法人日本財団会長)
笹川陽平
YOHEI SASAKAWA
公益財団法人日本財団会長
SAKON Dialogue : 030
笹川会長と
“ソーシャル・チェンジ”
を語る #1
日本財団(旧・日本船舶振興会)創設者・笹川良一氏の三男として生まれ、2005年に3代目会長に就任した笹川陽平氏。80歳にして現在も第一線で活躍する笹川氏は、「年配の人間が若者をエンカレッジして、彼らがまた次の世代を育てていく環境づくりをする必要がある」と話す。今回は笹川氏を迎え、ハンセン病制圧、障害者支援、子ども支援、災害復興支援など、国内外の社会問題の解決に取り組む日本財団の話を軸に、同氏が掲げる「ソーシャル・チェンジ」という考え方、活動に込める思いなどを伺った。聞き手は『長寿のMIKATA』編集長の山本左近。全2回に分けてお送りする。(山梨県鳴沢村の笹川氏の別荘にて2019年5月取材)
photos : Nobuaki Ishimaru(d'Arc)
text : Yu Shimamura

人間の絶対平等は、みんな死ぬこと

山本左近(以下、左近):笹川さん、本日はよろしくお願いいたします。

笹川陽平(以下、笹川):はい、なんでも聞いてください。僕は最近『妻のトリセツ』を読んだばっかりだから、人の話をよく聞くんですよ(笑)。

左近:しっかり読んで、僕もこれからに生かしたいと思います(笑)。笹川さん、僕は3年先、5年先ではなく50年先を考えて、社会をどう変えていくか、より良くしていくかをテーマとして取り組みたいと考えています。笹川さんは「ソーシャル・チェンジ」「社会革命」という言葉を掲げて活動されていますが、これからの50年先をどのように見ていらっしゃいますか?

笹川:みんな今日明日のことで精一杯で、政治家でも10年先のことを考えている人はわずかだからね。でも、これから人類はどうやって生きていくのかを考えると、500年、1000年先まで見ないといけない。

左近:500年、1000年先ですか。

笹川:これから人類はどうやって生きていくのかをね。僕は海洋が専門だから、地球の7割を占める海洋のことも考えます。世界の海のうちの7割は公海で、規則もルールもないためにゴミ捨て場のようになっている。海が死んだら人類は死んでしまいますよ。だから、人類が生き続けていくためにはどうしたらよいか、という国際的な観点をまずもたないといけません。

国内でいうと、平成から令和に変わる節目の時代ですよね。こんな小さな島国が長い歴史をもって、中国とは別個の独自の文化を保持し続けてきたこと、このような例は世界中を見ても他にはないわけです。世界でも稀有な存在ですから、そうしたアイデンティティを日本人みんながもち続けないといけない。実際、みなさんもち続けてくださると思いますし。

左近:そうですね。

笹川:そのために、僕は若い人のために力を貸さないといけないと思ってる。世の中を改革してきたのはいつだって若い人たちで、高齢者が革命を起こしたことはないんだからね。若者をエンカレッジして、彼らが勇気と希望をもって、また次の世代をつくっていく。その環境づくりを我々がしてあげないといけないんだから、若者の批判ばっかりしてちゃいけないよ。僕はそういうのは嫌だから、自分より若い世代の人としか付き合わないんです。

左近:日本財団の事業でも、若い人たちが活躍できる場を与え、支援していますね。

笹川:若者と一緒だと楽しいじゃない。うち(日本財団)はオフィスがフリーアドレスだから、僕は若いメンバーの中に座って仕事しています。80歳と25歳が一緒に勉強している。知らないことばかりで面白いんだよ、教えられることばかりで。

左近:「若者をエンカレッジする」、まさにその通りですね。笹川さんは何かを発信すると同時に、必ず実行していますね。

笹川:知識と行動は一致しないといけない。「知行合一(ちこうごういつ)」っていう、陽明学の基本的な考え方ですが、口ばかりで全然行動が伴わない知識人って多いでしょう。

左近:行動すると周囲から批判されるからでしょうか?

笹川:批判されたっていいじゃない。批判するより、批判される人間にならないと。指導者なら、批判されないってことは存在感がないってこと。それに若い人たちの特権のひとつは「チャレンジできる」ってことだからね。失敗しても何回でも取り返しがつく。

左近:わかっていても、そういったバイタリティをもって生きられない人が多いのかもしれませんね。

笹川: チャレンジするにはリスクがあるからね。でも、真剣勝負の人生を歩まなかったら人生とはいえません。僕は若い頃から常に死を覚悟してやってきたよ。毎日、いつ死んでもいいように「今日一日、全身全霊を尽くすぞ」と思ってやる。でも夜には、「今日はこれで果たしてよかったのだろうか」と反省しながらベッドに入る。でも、明日のためにまた頑張らなくちゃいけないから、「ひと晩寝れば希望にあふれた明日がある」って思って寝る。その繰り返し。

左近:いつ死んでもいいように生きるってことですね。

笹川:そう、全力を尽くす。どんなに大きな権力をもとうが、 何百億円お金をもとうが、みんな死ぬ。これは絶対平等です。だから僕は金持ちをうらやましいと思ったことがないし、権力者にしてもそう。
どのように死ぬかが大事で、それを各々、自分で考えなきゃいけないんです。だから僕は、死はアートだと思ってる。死は自分でつくらなきゃいけない。

左近:死に方を考えれば、生き方が決まってきますね。死を意識しながら生きることは、僕もとても大事だと思っています。

教科書がなくても「多様性」がわかる社会に

左近:2020年は、日本財団がオフィシャルコントリビューターとして連携・協力している東京オリンピック・パラリンピックが開催されますよね。
僕は2016年に、ブラジルのリオデジャネイロでパラリンピックを観戦しました。そのきっかけは、レース中の事故で両脚を失ってしまった元F1ドライバーのアレッサンドロ・ザナルディ選手で、ロンドン夏季パラリンピックのハンドサイクルという競技で金メダルを獲ったことなんです。

そのとき僕は「パラリンピック」という大会を初めて意識して、彼がリオに出場するなら目の前で観たいと思い、行ってきました。その感想をひと言で言うなら「感動」ですが、ものすごくエネルギーをもらったんですよね。障害があるのにスポーツをしているから感動したのではなく、アスリートとして自分の限界に挑戦し続けていることに感動したんだと思います。

一方、日本全体を見ると、障害者とコミュニケーションをとれる機会が少ないと感じることがあります。障害のある人が気軽に町中を出歩けるような環境になっていないのかなと。

笹川:日本の社会は、もともとはそういうコミュニティがあったんです。車いすの人、耳が不自由な人、知的障害のある人もみんな同じ町にいて、分断されていなかった。
白い杖を持ったおじいちゃんがいたら「どこに行くの」って声をかけて手を引く子どもがいたり、買い物に行く2時間だけ子どもを預けたいお母さんがいたら「うちに置いてって。晩ごはんもあるからゆっくりどうぞ」なんて風に成り立っていた時代があった。
パラリンピックで感動するよりも前に、本来は子どもの頃から自然と培われるべきものだと思っています。

左近:ヨーロッパに住んでいた経験からですが、僕は多様な人がもっと自然にとけ合えるような共生社会を目指したい思いがあります。

笹川:日本財団は、今までに数多くの障害者施設を支援してきましたし、高齢者施設もつくってきました。そして気がついたときには、町中に住んでいるのは健常者ばかりになってしまっていた。コミュニティを崩壊させて、分断させてしまったのは僕の反省、日本財団の反省でもあります。
ダイバーシティとか多様性とかいうけど、いろいろな人たちで社会が成り立っているってことは、教科書で教えるべき話じゃないんよね。だから、そういう施設はもう一切つくリません。人が多く集まる町に、いろいろな人たちを呼び戻すことをしないと。

左近:コミュニティを再構築されているんですね。

笹川:人間臭さのある社会に戻していかないといけないんじゃないかっていう思いがあるんです。だから実験的なことをたくさんやっています。
僕はね、日本という国を全て変えられるなんて思っていないけど、問題のあるところに成功事例をつくってモデルケースにすることは自分の仕事だと思っています。今、「ソーシャル・チェンジ」と僕が言っているのは、そういうかつての社会に戻していかないといけないからです。

左近:僕自身、医療施設や福祉施設の運営に携わっているので、問題意識があります。

笹川:福祉事業でいうと、福祉事業者が国からもらうお金と障害者に支払う賃金には大きな開きがありますね。たとえば、就労継続支援B型の利用者をひとり扱うと事業所は17万5000円の報酬がもらえます(※1)。でも、事業所に来て仕事をした障害者に支払われる賃金は月に1万数千円です(※2)。
※1 事業所の定員、就労支援体制、利用者の1ヶ月の利用日数による。
※2 平成29年度の平均工賃は月額1万5603円。

左近:月額工賃の全国平均はそうですね。

笹川:当時はそういう福祉政策でもよかったのかもしれないけど、今はもう馴染まなくなっています。だから障害者を福祉事業所から外して、一般企業で働く場を障害者に与えて、働ける仕組みをつくる試みを始めたんです。

渋谷では花屋さん、全国に15ヶ所ほどある百貨店に入っているチョコレート屋、東北でワイン造り、千葉県では胡蝶蘭栽培とか、みんな障害者に働いてもらっています。たとえば、これまで1万数千円しかもらえなかった人が10万円ほどもらえるようになる。そうすると福祉手当を合わせて、生活保護から脱皮できるようになる。家計を支える大事な一員にもなれます。

今、社会課題が細分化されているけど、それらの解決のために、これまでの法律や規則を変えないといけないこともある。それをひとつずつ取り上げて変えていこうというのが、僕のソーシャル・チェンジについての考え方ですね。そのためには闘わないといけない。だから僕は批判されることは恐れないんです。
(#2に続く)
笹川陽平
YOHEI SASAKAWA
公益財団法人日本財団会長
1939年、東京生まれ。明治大学政治経済学部卒。日本財団会長、WHOハンセン病制圧大使、ハンセン病人権啓発大使(日本政府)、ミャンマー国民和解担当日本政府代表(日本政府)ほか。40年以上にわたるハンセン病との闘いにおいては、世界的な制圧を目前に公衆衛生上だけでなく、人権問題にも目を向け、差別撤廃のための運動に力を注ぐ。旭日大綬賞(2019)、ガンジー平和賞(2018)、国際法曹協会「法の支配賞」(2014)、国際海事機関「国際海事賞」(2014)など多数受賞。著書『この国、あの国 考えてほしい日本のかたち』(産経新聞社)、『世界のハンセン病がなくなる日 病気と差別への戦い』(明石書店)、『外務省の知らない世界の“素顔” 』(産経新聞社)、『人間として生きてほしいから』(海竜社)、『若者よ、世界に翔け!』(PHP研究所)、『不可能を可能に 世界のハンセン病との闘い』(明石書店)、『隣人・中国人に言っておきたいこと』(PHP研究所)、『残心 世界のハンセン病を制圧する』(幻冬舎)、『愛する祖国へ』(産経新聞出版)など多数。
山本左近
SAKON YAMAMOTO
さわらびグループ CEO/DEO
レーシングドライバー/元F1ドライバー
1982年、愛知県豊橋市生まれ。幼少期に見たF1日本GPでのセナの走りに心を奪われ、将来F1パイロットになると誓う。両親に土下座して説得し1994年よりカートからレーシングキャリアをスタートさせる。2002年より単身渡欧。ドイツ、イギリス、スペインに拠点を構え、約10年間、世界中を転戦。2006年、当時日本人最年少F1デビュー。2012年に日本に拠点を移し、医療法人/社会福祉法人の統括本部長として医療と福祉の向上に邁進する。2017年には未来ヴィジョン「NEXT55 Vision 超幸齢社会をデザインする。」を掲げた。また、学校法人さわらび学園 中部福祉保育医療専門学校において、次世代のグローバル福祉リーダーの育成に精力的に取り組んでいる。日本語、英語、スペイン語を話すマルチリンガル。

関連記事

よく読まれている記事

back to top